他 by Rikako Oya

東京造形大学 デザイン学科 室内建築専攻領域

 
 

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水は常に対となるものに対応し、対話する。そして、その元で存在する。透明な水は、水と対話するものに重なり浸透していく。水を見るうちに水と対応する「他者」の存在がよりクリアに見えてくる。対なる人間の精神的世界や物理的世界まで水は容易に浸透し包み込んでしまう。水を介して「他者」を見る。

水は、自身の特性を見せず対話する「他」に沿って佇むが、一度交わり、浸水してしまうと、水と他者の境界をも曖昧にする力を持つ。そしてこの「曖昧さ」という余白部分に私たち人間は、幻想を抱き、夢を描いてしまう。しかし、科学によって物質化された「水」は、その曖昧さがなく不動の「h2o」になってしまった。いつも変わらないその物質は、動きも成分も実態も明確に解明し、斉一的なものとされた。そのせいで水の本来の曖昧さは忘れられ、夢を含む水に触れることが難しくなったのだと私は思う。

この透明性と浸透性は、手段化された現代の「水」には存在するのだろうか。水道の水やプールの水のように、水をただの「h2o」という一つの物質として扱うことで、私たちと「水」がはっきりと分けられてしまった。

関係、繋がり、影響が水によって可視化される。人間はわがままゆえに多くのものを見失い、「他」との繋がりの中で存在していることをすぐ忘れる。目の前の木と私は影響しあってるのか。生きている木との繋がりさえわかっていないのに、工業製品相手だと尚わからない。しかし水によって、繋がりが可視化され、全ては水の元に繋がっており、木が水の一部であり、私も水の一部であることに確信をもつ。タルコフスキーの映画「ノスタルジア」で「一滴に一滴を加えても一滴」というセリフがある。生命の根源である水はやはり私たちの根源であり、私たち自身である。私たちは水である。水と人間、一滴と一滴が加わろうとも、私たちは大きな一つの水であるのだと私は思う。

上層は、水を個別化することで、強い境界が生まれ、他者との繋がりが断絶された単なる一つの一つの物質としての現代の水を表現した。下層は、水の曖昧性によって境界をもぼやかしてしまう人間にコントロールされない本来の水の姿を表した。

個々にされた水は、境界をぼやかし、大きな一つの水となる。

水は繋がりを断つことのできない大きな一つの結合物であるのだ。


words: Rikako Oya

 

CREDIT

作品名:他(ta)

氏名 :大屋凜可子

学校名: 東京造形大学 デザイン学科 室内建築専攻領域

卒業年:2024

応募カテゴリー:インスタレーション

 

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